諦めの先に


「あたしの体の外に出た瞬間からあんたは他人なのよ」


と母に言われながら育ってきた。
だからといって冷たくされたり、保護されずに育ったというようなことはない。
ただ、そういう育て方でいきますからね、という宣言だった。
いま思えばそこには、
母として完成品として見られてもらっては困る、という、人間らしい、母の逃げがあったように思う。
逃げ、というか、境界線、というか。
あたしはここまでしかできないってわかっておいてね。というような。

多分、母は“わかりあえない”ということを最初から明記しておきたかったのじゃないかしら。
家族の意識の中の「家族のあり方」の中に。「人としてのあり方」の中に。
わかりあえないことを最も恐れるが故に。
わかりあえないことを自らに言い聞かせるかの様に。


(私たちはお互いに知らないことが在りすぎる。
 見えないことが多すぎる。
 それなのに分かったような気になるとあとで痛い目を見る。
 そうでないとしても傷つける可能性は十二分にある。)


(母の育て方がうまくいったのかそうでないのかはよくわからないけれど、
 わかりあえない、そう諦めた上での優しさは本当に果てしなかったから私はとても恵まれている。
 そういう優しさを受けながら生きて来れたことを誇らしく思う。
 そう育ててくれた母という存在を誇らしく思う。)


わかりあうことをゴールにするのは息苦しいことだと思う。
わかりあえないとしても、私たちが本当に他人だとしても、
つながれる何かや、与えることが出来る何か、気持ち良く、楽しく、共に生きていく術はあるのだ。
ないとしても、ある可能性はあるのだ。

私たち家族はそれをずっと探してあっちこっちにもたもた行きながら
形を変えながら、でも崩壊はせずに此処まで来ている。
そして奇跡的に、それなりに愛しあうことが出来ているような気がする。
家族の中でいちばん最後に産まれた私は、何にもせずただ生きて生かされてきただけだけれど。

     「               他人だから。
                            の
                    諦めのその上に
       その辺りに答えがある気がするんだよ。

                  あきらめ。ジエンド。

                       じゃなくてさ。

                           そこに
                            けど、
                        を付けたい。

                        だけど、を。
             そこに真実が宿る気がする。
            真実に働くちから、というものも。         」


なんてね。

2008.01.03 | | Comments(0) | Trackback(0) | 思考

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